徳川美術館蔵『神通論』の解読
―著者同定への階梯―
平成26年度国際シンポジウム発表要旨
落合 俊典(国際仏教学大学院大学 学長)
本書は尾張徳川家に伝来し、代々弘法大師空海筆とされてきた。尾張徳川家の所蔵となった由来は不明であるが、この手の書は古来「東寺切れ」と称され、相当数が一行乃至数行に断裁され手鑑等に貼られて伝承されている。その中分量も多く著名なものが新羅元曉撰『判比量論』である。神田喜一郎旧蔵本(荼毘紙〈白麻紙〉。三紙105行。一行19字)が大谷大学博物館に所蔵されている。また国文学研究資料館の落合博志蔵の断簡は9行あるが、これは前者の連れ本と想定されている。
徳川美術館蔵の『神通論』もまた東寺切れに相似している。即ち、荼毘紙にして十六紙404行(本文)。一行19字である。平均一紙28行となっている。書写年代について筆者は八~九世紀と考えている。また奥書に記してある「沙門遍照金剛」の書体は空海筆に相似するが、本文の書体・筆法とは異なる。本文を空海としてきた伝承はこの奥書を典拠としているのであろう。
書名であるが、「神通論」は本来の書名ではなく、恐らく品題であろうと考えられる。経録や仏教書籍目録類には本題は全く見られない。空海の請来目録にも、さらに空海の著述等にも本書の引用が見出されない。そのことから長らく内容・撰者ともに不明の書とされてきたようである。「神通論」とあれば『瑜伽師地論』の菩薩地威力品を対象とした注釈書を想定しがちであるが、必ずしも威力品に従っているわけではない。むしろ『成唯識論』と密接な関係を有していると思われるが、直ちにその注疏とするには困難な障害を除かなければならない。『成唯識論』の順次に従っていない点と新羅僧太賢の『成唯識論学記』等にも引用文が見られないという二点である。
本文の書体は東寺切れと共通している。但し多くの誤写が見られることからやや稚拙な書写僧が書き写した可能性が高い。「事」と「至」、「伏」と「依」など原文書体を十分理解しないまま書き写しているために正確な翻刻には十全な内容理解が欠かせない。
それでは本文は何が書かれているのであろうか。先ずは引用書目を通覧してみると分かり易い。
「性云」6箇所。「無性(釈)」「無性(云)」15箇所。「雑集(論)」6箇所。
「瑜伽師地論」20箇所。「摂大乗論」15箇所。「摂大乗論釈」4箇所。
「摂大乗本釈」1箇所。「世親釈(論)」9箇所。「荘厳論」10箇所。
これらの書目から類推できるのは玄奘門下の法相の学流である。また引用書目に玄奘訳経以降の書が見られないので本書の成立も七世紀後葉以降から遅くとも八世紀中葉までには成立したものと考えられる。
さて本書解明のキーワードは次の「此論」、「此釈」(17箇所)、「広説如彼」(9箇所)という語句であろう。最初の「此論」と書写されているのは16箇所見える。それらを整理してみると「此」は『成唯識論』を指していることが判明する。
次に実際に引用している箇所を見てみたい。
a.
『神通論』71行:「静慮儀等放唯根本智有義第八至為自性故者即」
『成唯識論』巻9:「有義第八以欲勝解及信為性。願以此三為自性故。」
b.
『神通論』152行:「般若有三種至倶空無分別慧者有観及三聚中…」
『成唯識論』巻9:「般若有三種。謂生空無分別慧法空無分別慧俱空無分別慧。」
この引用文だけでも『神通論』が述べる「此」は『成唯識論』を示していることが容易に理解できるであろう。しかし、a.とb.の『成唯識論』の箇所を見ると不思議なことに順次が逆転していることに気が付く。
『成唯識論』巻九
「十勝行者即是十種波羅蜜多。施有三種。謂財施無畏施法施。戒有三種。謂律儀戒。攝善法戒饒益有情戒。忍有三種。謂耐怨害忍安受苦忍。諦察法忍。精進有三種。謂被甲精進攝善精進利樂精進。靜慮有三種。謂安住靜慮。引發靜慮辦事靜慮。般若有三種。謂生空無分別慧法空無分別慧俱空無分別慧。方便善巧有二種。謂迴向方便善巧拔濟方便善巧。願有二種。謂求菩提願利樂他願。力有二種。謂思擇力修習力。智有二種。謂受用法樂智成熟有情智。此十性者。施以無貪及彼所起三業為性。戒以受學菩薩戒時三業為性。忍以無瞋精進審慧及彼所起三業為性。精進以勤及彼所起三業為性。靜慮但以等持為性。後五皆以擇法為性。說是根本後得智故。有義第八以欲勝解及信為性。願以此三為自性故。此說自性若并眷屬一一皆以一切俱行功德為性。」 (『大正蔵』31巻51頁中段8行~26行)
つまり、『神通論』は『成唯識論』の註疏ではないことが理解できてくる。通常経論の疏は巻首から順に語義解釈をおこなうが『神通論』ではそれに従っていない。つまり『成唯識論疏』という書名は付けられないことになる。『成唯識論』と密接な関係を有していながらその疏もしくは註でないとするならば何か。どのような書名が付されるのが妥当か。その階梯を探りつつ本書の書名にたどり着きたいと考えている。