漢訳『法句経』原典の言語とその部派帰属について 異なる部派に属するダルマパダ諸本を比較研究する際に、漢訳『法句経』は以下の三つの点で価値の高い資料である。第一にそれはダルマパダの最初の漢訳であるという点、第二に以降のダルマパダ諸本の漢訳に影響を与えてきたという点、第三に全39章のうち中核となる26章はパーリ本『ダンマパダ』にぴったりと一致し、それゆえに最初期のダルマパダの一つであるパーリ本の原典発達や、ダルマパダ文献一般の発展の初期段階を理解するのに重要な資料を提供すると長い間見られてきた点である。 本発表では、特に漢訳『法句経』原典の言語とその部派帰属の問題について見解を述べようと思う。 1878年のサミュエル・ビール以来、『法句経』はパーリ本の翻訳であるとみなされてきた。以来この説は現代の諸学者によっても一般的に疑問視されておらず、碩学水野弘元も『法句経の研究』(東京、1981年)において同じように見ており、さらに彼は漢訳『法句経』の原典が古代スリランカのアバヤギリ派(無畏山寺派)に由来すると信じている。 対応するパーリ本の術語や文章と漢訳『法句経』とが著しく異なっている箇所について、水野氏は、そうした箇所は翻訳者がパーリ語を理解できなかったためであるとして、詳しい説明を避けている。 確かに漢訳『法句経』とパーリ本との間には構成と内容の面で親近性が見られるが、しかしながら管見するところでは、漢訳『法句経』がパーリ本の翻訳であるという説に明確に矛盾する証拠もたくさん見られる。 まず、まさに第一偈そのものが、漢訳『法句経』とパーリ本とがそれぞれ異なる伝承に属していたことの有力な証拠であるように思われる。さらには、パーリ本に対応する漢訳のいくつかの箇所は、漢訳『法句経』原典がパーリ語ではなくてプラークリット語で書かれていたことを示唆している。少なくとも、現在の上座部『ダンマパダ』に使われているパーリ語ではない。