河内長野市天野山金剛寺所蔵の『無量寿経優婆提舎願生偈註』(以下『論註』)巻下写本は、保延四年(1138)十二月の奥書をもち、日本において現存最古の写本である。注目すべき点は、ほぼ全文にわたって朱書による訓点が施されていることである。ヲコト点は、文字右上に施された線点(\)「ナリ」のみであるが、過去の研究に照らせば、それは主に仁都波迦点など天台系統の文献に見られる点である。返り点には、文字左下の星点と一二点を用い、文字の左中央に打たれており、五点まで見られる。また、本書に見られる仮名の中、「ヲ」「ツ」「シテ」などは平安後期の形で書かれていることがわかった。以上のことから、金剛寺本の訓点は、書写時からあまり下らない時代に付されたのではないかと考えられる。
日本において、金剛寺本書写時前後の『論註』の伝承を見てみれば、東大寺・醍醐寺で三論・密教を学んだ珍海(1091〜1152)が、その著『決定往生集』で『論註』を引用し、興福寺・醍醐寺で法相・密教を学んだ中ノ川実範(?-1144)が著書『念仏式』(『往生論五念門行式』)で『論註』を引用している。実範は、現在の京都府木津川市にあったとされる光明山寺に入りそこで亡くなっているが、そこは東大寺三論系別所であった。そして、河内の天野山金剛寺に保延四年(1138)写の『論註』が残っている。当時の南山城・奈良の動向と南河内の金剛寺との間に関連があるのであろうか。
『念仏式』には、長承四年(1135)写本が龍谷大学図書館に所蔵されている(重要文化財)。金剛寺本の3年前の書写である。そこには『論註』が引用されており、更に朱書でヲコト点が付されている。また、西本願寺蔵親鸞加点版本『論註』は、親鸞による建長八年(1256)の加点である。
本発表では、金剛寺本とそれらの文献の訓点を比較し、当時の畿内における『論註』の伝承などについて考察していく。更に、そこから、金剛寺に『論註』写本が存していた意味を明らかにしたい。
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