大塚紀弘(日本学術振興会特別研究員PD)
金剛寺一切経の来歴について
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大阪府河内長野市の天野山金剛寺には、四千巻を超える一切経が所蔵されている。この金剛寺一切経は、すべてが筆写本で、書写時期は平安後期から鎌倉後期までの三百年近くに及ぶ。そのため、版本一切経はもとより他の古写本一切経と比べても、内容・形態の多様性が際立っている。金剛寺での一切経書写事業はどのように進められたのだろうか。これを直接語ってくれる史料は一切残されていない。
ところが幸い最近、落合俊典氏を研究代表者とする科学研究費補助金による研究成果報告書が公刊され、新たな手掛かりの利用が可能となった。すなわち、一切経すべての調査がなされ、奥書・法量を始めとする詳細な書誌情報が提供されたのである。今回これに基づいて検討した結果、新たな事実が判明すると同時に、数々の謎が浮かび上がった。
河内国の金剛寺で一切経書写事業が始まったことがほぼ確実なのは、承元2年(1206)頃で、嘉禎3年(1237)頃に書写活動が最も盛況となり、遅くとも文永10年(1273)までには完成したようである。この間に書写された仏典は縦25・6p前後で一定しており、提供された料紙の規格性がうかがえる。
他方、以上とは別に「天野宮一切経之内」等の墨書が付された仏典が多く見出される。これらは建久6年(1195)頃に、紀伊国の豊福寺と関係の深い栄印なる僧侶の発願により、縦27・0p前後の料紙を用いて書写が進められたようである。当発表では、この「天野宮」は金剛寺に勧請されたそれを指すのであろうか、「天野宮一切経」と「金剛寺一切経」はいかなる関係にあったのか、といった問題について考察する。
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