齊藤 隆信 (佛教大学准教授)
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漢訳仏典における韻文の種々相
漢語文献はその文章スタイルから散文と韻文とに分類できる。それは漢訳仏典の文章においても同様であり、散文を長行と称し、韻文を偈頌と称す。これまで漢訳仏典の研究において、散韻混淆のテキストであれば、散文(長行)が研究対象とされることが多く、韻文(偈頌)が積極的に取りあげられることは稀であった。しかし、二つしかない文体の一方(長行)でだけの研究は不十分であろう。もう一方(偈頌)を取りあげることで、新たな情報を発見することになろう。
漢訳された偈の句式は、音節数を均一に調整することで韻文の体裁をとっているかのような印象をうける。しかし中華の韻文における絶対条件としての押韻を認めることができない上、語彙の割裂の現象も見られ、それはあたかも一定の音節に分断しただけの散文(長行)にすぎないのである。つまり視覚的に韻文を装ったものが漢訳仏典の偈なのである。真理としての仏言を伝達することこそ優先される経典にあって、「語義の漢訳」を閑却するわけにはいかないのが道理である。
しかし、一部の訳者は韻を配慮しつつ漢訳することが可能であった。それは豊富な語彙力と漢字音の識別能力が要求される、まさに「形態の漢訳」を実現させた瞬間でもある。それらを中華の韻文資料として再評価することで、その音韻体系からは多くの問題を究明しうるのである。今回はその実例として東晋失訳『般泥洹経』、および後秦鳩摩羅什訳『大智度論』をとりあげ、インドから中華への仏教東漸にともなって発生した韻文の再構築(形態の漢訳)という、中華における文学的・実用的な配慮を検証する。
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