高山寺本新訳華厳経音義と宋版大蔵経
平成25年度シンポジウム発表要旨
池田 証寿(北海道大学 教授)
高山寺本『新訳華厳経音義』(重書類14)は、八十巻本華厳経(実叉難陀訳)の巻音義である。この音義は、明恵(1173~1232)によって再興された高山寺華厳教学の中で編纂された書であり、撰者は、明恵の高弟・義林房喜海(1178~1250)である。現存本は、嘉禄三年(1227)の本奥書を持つ安貞二年(1228)書写本である。
高山寺本『新訳華厳経音義』は、経文の字句を二字で掲げ、それに字音注を付す。音注は反切を主とするが、類音注も少なくない。これらの音注はどのような典拠に基づくのか。日本における仏典音義や字書の編纂においては、中国の『玉篇』(梁・顧野王撰、543年)、『切韻』系韻書、玄応『一切経音義』を利用することが多い。華厳経の場合には慧苑『新訳華厳経音義』を主要な典拠とした小川本『新訳華厳経音義私記』がよく知られている。
高山寺本『新訳華厳経音義』の音注の典拠に関する沼本克明氏の研究では、上記した『玉篇』、『切韻』、玄応『一切経音義』、慧苑『新訳華厳経音義』と高山寺本『新訳華厳経音義』の音注との比較結果に基づき、慧苑『新訳華厳経音義』と『切韻』、さらにもうひとつの典拠があるとした。ただそこでは、漢訳仏典の巻末に付された音義には注意が払われていなかった。漢訳大蔵経に巻末音義が付されていることは、その分野の研究者には周知のことと思われるが、国語学の研究では注意されることがなかった。
発表者は、1991年から高山寺典籍文書綜合調査団の団員として高山寺経蔵典籍の調査に参加している。同調査団は、国内外に所蔵される高山寺旧蔵本についても継続的な調査を進めているが、石塚晴通氏による中国湖北省博物館所蔵楊守敬旧蔵日本古写本に関する研究は近年の大きな成果と言える。
高山寺旧蔵本調査として、発表者は宮内庁書陵部所蔵の高山寺旧蔵本の調査を担当したが、巻末音義を附載する単刊の宋版『華厳経』が存在すること、その巻末音義の内容の一部に高山寺本『新訳華厳経音義』と同一のものがあることに気付いた。さらに調査を進めると、単刊の宋版『華厳経』巻末音義と一致しない音注がかなりあることがわかってきた。そこで、宋版大蔵経に附載される華厳経の巻末音義との比較を行ったところ、不一致の音注は、宋版大蔵経の華厳経巻末音義によることが判明した。比較に用いた宋版大蔵経は、宮内庁書陵部蔵一切経(406函56号)である。高山寺に存在した宋版大蔵経は、古目録の記述から福州版と推定され、宮内庁の宋版大蔵経も同類と見られる。日本では数多くの音義が編纂されたが、巻末音義を主な材料とする音義(さらには字書)の存在は知られていなかったため、その典拠を突き止められなかったのである。
以上について報告し、さらに単刊の宋版『華厳経』巻末音義と宋版大蔵経巻末音義とをどのように使い分けたのかという問題について私見を述べる。