令和5年度 第2回公開研究会
日時
2023年11月25日(土)午後3時15~午後5時00分
会場
発表者
浅野学(本学博士後期課程)
「真福寺本『妙法蓮華経憂波提舎』の本文系統と史料的意義」
【発表要旨】
本研究で用いる真福寺本『妙法蓮華経憂波提舎』(以下、本書を『法華論』と略称し、当該資料を真福寺写本と称す)は、帰敬頌及び帰命頌を有する菩提流支訳の一巻本であり、その奥書から鎌倉時代初期の元久二年(1205年)に、叡尊(1201~1290年)の父で僧の慶玄によって書写されたと推定される、新出の『法華論』写本である。
世親撰『法華論』の現行本である『大正新脩大蔵経』第二十六巻所収の菩提留支等訳の二巻本及び勒那摩提等訳の一巻本とは異なる本文内容を伝える真福寺写本は、所謂「古形の流支訳」(金炳坤氏による指摘)と目される円弘『妙法蓮華経論子注』(以下『子注』と称す。巻上のほぼ全て・巻下の半分ほどが現存。巻中は散逸)所引の『法華論』や、最近日本古写経データベース上で公開された興聖寺本・七寺本、さらに聖語蔵経巻(丸善雄松堂のカラーデジタル版)などの流支訳『法華論』一巻本(七寺本の一巻本は留支訳と表記されている)と同系統のテキストと見られることが、金炳坤氏の研究(「『法華論』諸本校合」)に倣い筆者が実施した新たな諸本校合によって分かってきた。
八世紀以前の成立である『子注』がそうであるように、流支訳一巻本が流布していた時代・地域において活動していた注釈家たちは、現行本と内容の異なる流支訳一巻本を見ていたと考えられる。注釈家の解釈は依拠したテキストの内容によって変わり得るため、そのテキストを特定することが研究上重要である。現行本と異なる内容を伝え、江戸期刊行の和刻本(叡山版など)よりも古い形を留めており、且つほとんどが完本である日本古写経本の流支訳一巻本は、今後の『法華論』関連の研究において、重要な一次資料となる。
真福寺写本の特筆すべき特徴としては、全篇にわたって付されている訓点(本年度第1回公開研究会で、本書の訓点およびその訓読について考察した中野直樹氏は「平安後期以降鎌倉初期頃の訓読の実態を考えるうえでの好資料となり得る」と結んでいる)と、上下欄外・本文の傍・紙背に書き込まれている膨大な量の書き入れとがある。書き入れは、そのうちの一つが基『妙法蓮華経玄賛』からの引用であることを、既に『いとくら』第12号で報告したが、その後の調べによって「注云」の箇所が、聖語蔵本の『子注』の内容とよく一致していることが新たに判明した。「注云」の箇所が『子注』の引用であるならば、本書の書き入れから『子注』の散逸部分のうち、幾分かの逸文検出が期待できる。
また本奥書には「㸃本云天平勝寶七年歳次乙未年三月廾七日僧定馥師」と、勝宝七年(755年)の年記を有しており、これが大正六年(1917年)発行『日本大蔵経編纂会会報』第二十三号掲載の円珍『法華論記』の解題中に言及される、石川舜台(1842~1931年)が貸し出した「天平勝寶七年の願經」の『法華論』と年記が一致していたことから、石川舜台の下にあった天平勝宝七年本は真福寺写本の底本であった可能性もある。天平勝宝七年本の所在は明らかではないが、2022年7月実施の大須文庫実地調査でご一緒した万波寿子氏からは、真宗大谷派石川舜台老師所縁の寺院が、北陸地方にあることをご教示いただいた。天平勝宝七年本もそこに保存されている可能性があり、今後の探査が俟たれるところである。
上述の通り、『法華論』関連の文献学的研究・思想研究を推進する上で、新出の真福寺写本が有する史料的意義は極めて大きい。
南宏信(佛教大学 准教授)
「西光寺結縁写経から見る法然と一切経との関係」
【発表要旨】
浄土宗元祖法然(1122―1212)における一切経(大蔵経)や写経に関する記事は、諸伝記に数カ所確認することができる。①修学期に比叡山西塔黒谷の報恩蔵に籠り一切経を学んだ(『法然上人行状絵図』第四巻第一段、第六巻第一段)。②また文治四年(1188、56歳)後白河法皇(1127―1192)が白河押小路殿で行った如法経供養の先達を勤める。写経後には十種供養の儀式を行い、横川に奉納している(『同』九巻)。③その後元久元年(1204、72歳)には後白河法皇の十三回忌に六時礼讃と浄土三部経如法経の供養を勤める。(『同』第一〇巻第五段)その次第は『浄土三部経如法経次第』として『黒谷上人語灯録』に収録されている。④晩年の法難による配流を許された法然が、帰洛の途中に四年間滞在した勝尾寺で、法服とともに一切経一揃いを施入している(『同』三六巻第四段)。
しかし年次や内容など、一字一句が全て史実であったかどうかの問題も付きまとう。また法然は専修念仏を標榜し、諸行を選捨する立場を基本とするので、一切経や写経に関連する事柄を積極的に評価することはない。とはいえ全く根拠がない状態から創造されたともいえず、法然と一切経との関係を示唆する出来事として興味深い。そして諸伝記には採録されることはなかったが、実際に法然が関わった結縁写経が現在に伝存している。
法然と一行一筆結縁写経
一つは大阪一心寺の『摩訶般若波羅蜜多心経・阿弥陀経』である。文治五年(1189、57歳)の書写である本経には法然の筆による一行と署名が確認できる。文献の性格上、法然の思想を直接うかがい知ることはできないが、分写の結縁者たちの法縁的地縁的関係が指摘されるなど貴重な文献である(青木淳「大阪一心寺所蔵一行一筆般若心経・阿弥陀経(全一巻)解説」『法然上人研究』3、1992年)。もう一つは近年愛知県津島市西光寺が蔵する水落地蔵菩薩像から発見された『無量義経』『観普賢菩薩行法経』の一行一筆結縁写経である。前者で「源空」の署名が確認できることを青木淳氏がすでに報告しており、本経は文治年間に書写されたと見られる。
二つの署名から、文治年間に法然が結縁写経に積極的に参加していることが推察される。そうすると法然が参加した結縁写経の底本になった経典はどのようにして調達されたのであろうか。というのも日本には玄昉(―746)以来、伝来・書写され続けてきた一切経の系統(日本古写経)の他に、刊本(木版)漢文大蔵経の嚆矢であり奝然(938―1016)によって藤原道長(966―1027)に献上された開宝蔵や他にも高麗版、福州版(東禅寺版・開元寺版)、湖州版(前思渓版・後思渓版)など、法然在世時には様々な大蔵経が開版、伝来している。法然は『逆修説法』『選択集』で宋の王日休(1105―1173)撰『浄土文』をいち早く受容するなど、宋からの新しい情報を知ることができる環境にあったことがすでに指摘されている。結縁経の底本となった一切経の系統を探ることは法然周辺のネットワークを探る一助にもなろう。
法然の署名が確認できる西光寺蔵『無量義経』を俎上にし、経文を『大正蔵』(高麗版を底本に宋版(思渓版)・元版・明版で校合)と比較した。結論から言うと、高麗版とも宋版とも一致しなかった。そこで日本古写経の系統である京都興聖寺本と比較したところ、ほぼ一致した。結縁写経の底本には、刊本大蔵経ではなくそれ以前から日本に伝来・転写されてきた古写経の系統を使用していたようである。
また形式的な点について、興聖寺本は一行あたりの文字数は17から18字である。一方西光寺本は一見すると字が詰まっていたり、書写者の癖があったりと統一感がないような印象を与えるが、一行17字でほぼ統一されている。そのため改行箇所によっては一行1字のみの結縁者も数人確認できる。かなり形式が整えられた経典を底本にしていたことが窺える。ではどのような経典が想定され得るのだろうか。法然周辺に見られる古写経の可能性を検討していく。
問い合わせ
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11月22日(水)までにお申し込み下さいますようお願い申し上げます
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