日本古写経善本叢刊 第六輯
『金剛寺藏 寶篋印陀羅尼經』
それはいかなる経緯で書写されたのか。奇しくも見いだされた各々の古写経に、それぞれに育まれた個別の歴史があることはいうまでもない。詳細な経典本文の研究の先に、その幾ばくかの片鱗を見いだすことはできまいか。河内長野の古刹、天野山金剛寺に伝来する二本の『宝篋印陀羅尼経』を披見し、『日本古写経善本叢刊』の第六輯として公刊の機を得、その要をあらためて噛みしめた。
本経は、『大正新脩大蔵経』に不空訳とされる二種が江戸期の書写本を底本に収載されるが、金剛寺蔵の二本(重要文化財)は、空海請来の『三十帖策子』に代表される種の本とは異なり、経内の陀羅尼の後段に、本経による利益が具体的に説かれた増広改変の認められる種に属す。いずれも平安末から鎌倉時代初期頃までに書写された時代を遡る完本であり、善本としての価値をもつ。本叢刊では、その全貌を一覧可能にすべく、初となる全文カラーの影印に翻刻を附し、解題を加えて紹介を行った。また、二種の差異が瞭然となるよう諸本を対校するとともに、『国訳密教』に掲載のない当該種の和訳を試みに提示した。
故人にまつわる筆録(消息、和歌や今様)を料紙に仕立て、その表、或いは紙背に金泥もしくは墨書にて経が書写されるといった金剛寺本の装丁には、如来の全身舎利の功徳により故人の往生が確かなものになるという、「法舎利」としての本経の経意が具現化されている。かの供養が格別な施主の願意によるものであることは、その贅を凝らした経巻全体に滲み出ており、後白河院政下の建春門院や八条院周辺の女院文化圏を想定し得る。
中国において『宝篋印陀羅尼経』といえば、増広改変のない種に属す呉越王の『錢弘俶経』が専らであるが、わが国においては平安後期から鎌倉時代にかけて流行をみた増広改変のある本文が、瓦経や、東大寺南大門仁王像をはじめとする慶派仏師の仏像胎内の納入品に、また『宝物集』や『徒然草』などの中世の文芸世界に見いだされる。それらは生きた信仰として、安穏なる来世を願って書写された古写経の歴史を物語っている。
経典の文献学研究による本文提示を基礎とする資料篇と、国内外の研究者が一つの経典を各々の見地から見つめて論じた七本の論攷篇とを合わせて報告することで、同経を所依とする宗教思想に関わる研究が様々な分野において進む契機となることをここに願ってやまない。(編輯担当 小島裕子)
内容
緒言(今西順吉/後藤昭雄)
資料篇(小島裕子)
- 金剛寺藏『一切如來心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼經』金泥寫經本
解題・影印・翻刻 - 金剛寺蔵 『一切如來心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼經』墨書寫經本
解題・影印・翻刻 - 金剛寺蔵 『一切如來心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼經』墨書寫經本
訓讀 - 諸本対校『寶篋印陀羅尼經』
論攷篇
- 寶篋印陀羅尼經本文研究序論(落合俊典)
- 小論・文化財的觀点からみた金剛寺本寶篋印陀羅尼經(赤尾榮慶)
- 和歌史における金剛寺本寶篋印陀羅尼經(海野圭介)
- 金剛寺傳來の寳篋印陀羅尼經と信仰 ─法舎利としての經典─(小島裕子)
- 中國國家圖書館藏雷峰塔經版本系統研究(李際寧・方廣錩)
日本語譯(佐藤礼子) - The architectural and religious functions of the Baoqieyin Dhāraṇīsūtra manuscripts at Leifeng pagoda (釋智如)
日本語譯(山野千恵子) - 宝篋印陀羅尼の梵漢比較(林寺正俊)
あとがき(落合俊典)